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断崖の女王も、僕にかかったら、形無しだな
「オーイ悟りは開けたか」
「ああ、開けた」
「オー凄い、どんな風に」
「ウン、悟れないと悟った」
「なる程、ハハハ}
そんな会話が聞こえてきそう。
シンニンギア ハイブリッド、断崖の女王という花なのだそうだけど、僕には、そんな風に見えるのである。
ところで、悟りって何
タブレットで調べると、
「迷いの世界を超え、真理を会得体得すること。解脱も同義語」らしい。
よく分らないが、迷いを超えるなんて無理無理…
願望を達成しようとする努力ほど素晴らしい修行はないと僕は思う
だいたい、そんな人間面白くもなんともない━と僕は思う。
恋に悩み、自分に悩み、友達に悩み、仕事で悩み、人生に悩むからこそ、人間なのだ。
そうして、いろんな悩みを体験して、人としての魅力を身につけていくのだと、僕は思っているのである。
だって、人生なんて不可解なものに決まってるじゃんねぇ…
そりゃ、悟りを開くための修行、確かにいいけどね、念仏唱えているだけでは、修行にはならないと思う。
それよりは、こうなりたい、ああなりたい、あれが欲しい、これが欲しいと思うならば、その願望を満たす努力をする方が、その過程で得る体験の方が、結果的にはいい修行になっていたというのが、70年の人生の中で得た、僕の体験。
まさに浮草、流れのままに、それが僕の人生だった。
振り返ってみると、不思議なことに、若い時に描いていた(思っていた、考えていた、願っていた)人生の上を今歩いているということに気づいた。
そう、100パーセントではないけれど、そう思っているのである。
ベンチに座って、自分の人生、簡単にプロセスを辿ってみた
僕は大学受験に失敗して、写真の道を志した。
そうした暮らしの中で、いろんな人と会って、僕のキャンバスには色んな色彩の絵具が塗られ、それが次つぎに上書きされ、気が付くと、まるで、カミューの「シジホスの神話」のように、
やっと、岩を山の上に担ぎあげたと思ったら、それがゴロゴロと転がって、スタート地点よりも、もっと後ろからやり直さなければならなくなった経験が山程ある。
しかし、時々、願望が成就されたりしたりするのだが、またドカーンと打撃を受けたりしてね…
そりゃ、その時はショックだけどね、今にして思えば、それでよかったのである
「あれは、あそこでとん挫していてよかったな、あれがもし、あそこで成功していたら、きっと変な色がついて、今のような人生にはなっていない」と思うことが多々あって、
「うまく導かれてここに来たんだな」と、最近思うようになってきたのである。
そういうと、僕をよく知る人たちは
「ホンマニお前は、流れのままに生きてきたな」と言われそうだが、僕もそう思う。
まさにデラシネ、浮草の人生だった。が、うまく流れてきたと、今、つくづく思うのである。
秋の一日、公園のベンチに座ってボンヤりとしていたら、そんなことが、フッと頭に浮かんできた。
そうなんだ、
「人生思うようにはならないが、願うようにはなっている」ものなのだと、思ったのである。
★ ★ ★
本当は昨日から5日間、連休の予定だったのだけれど
「相談なんですけど」というメールが来て、「いいですよ」と返事をしたら、
一昨日、昨日の二日間で、3勤務、しかもその総合時間が、5時間弱というラッキーが。
たったそれだけのささやかなことが、大きな幸せなのだから、押して知るべしの人生なのだけれど、僕は今、それで喜びを感じていることに、幸せだと思っているのである。