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風景の報道写真か 懐かしい言葉だなぁ
これは説明しなければわからないのだが、
その前にこの写真、
多分寒桜だと思う、
昨日仕事で錦糸町に行ったの、
で、
昼を済ませ公園に休憩に行ったら咲いてたの
鮮やかなピンクが目を惹いたのでスマホで1枚…
帰って大型のモニターに写してみたら
なんとなく
そんな(報道写真)感じがして「OHと…」
この言葉を聞いたのは写真界の重鎮、
林忠彦氏からだった
もちろん、昔々のことである。
確か青年会議所発行の「50憶」という雑誌だった。
企画は、有名人の「青年の頃」というものだった
無名時代から名を出すまでの経緯を聞き、
そのポイントポイントで何を考えどういう行動を取ったかというのを聞き出してまとめるという連載の何回目かの取材だった。
林さんはこの時、
日本写真家協会の名誉会員で、
若い頃の無理がたたり、
肝臓を患い入院していたのだが、
わざわざ病院を抜け出してきて取材に応じてくれたのだった。
林さんといえば太宰治や坂口安吾の写真が有名で「人物写真の林忠彦」で売ってきた人
最近(晩年)は風景写真を撮っていたのだという、
そこで古くから付き合いのある風景写真の大家
緑川洋一氏
(岡山の写真家で瀬戸内海が特に有名で光の魔術師という異名を持っている)
が出てくるのだが、
林さんが話す二人の会話はつぎのようなものだった。
「緑川さん 僕も最近は風景写真を撮っているんだよ。風景写真は難しいものだと思っていたが、やって見ると案外撮れるもんだな」
そう言って、
数点の風景写真を見せたのだそうだ
ところが、
それを見た緑川氏は言った。
「林さん これは風景写真ではなくて、風景の報道写真だよ」
林さんは、その言葉が非常に嬉しかったという、
以来、林さんは「風景を報道する」という感覚で、風景写真を撮り続けているのだと
縁の不思議さ、面白さ
その言葉を聞いて私は、
恩師石津良介先生のいわれた、
忘れられない一言
「久保君、これから君が写真家になって風景写真を撮るようなことがあったら、人物を入れないで人物を表す、そんな雰囲気を意識しなければならないよ
いまそこに人がいたんだよという、この雰囲気が風景写真の命なんだ、いや、これは何も風景に限ったことではない、物でもなんでも、そんな感じがでなくてはだめさ」。
石津先生に教えられたその言葉をそっくり林さんに話すと林さんは一瞬驚き、
そしてしばらく間を置いてから、
「さすが石津良介、私の先輩だけある」
一言そう言ってから思い出話を聞かせてくれたのだった。
林さんは戦時中北京の広報室に石津先生と一緒にいて、写真のことをいろいろ教わったのだと…
縁って不思議だね…
僕は石津先生の最後の弟子なんだけど
東京に出る時は
「今は僕より緑川先生」
そう言って、
緑川先生のところに連れて行ってくれ
「黎明社」という印刷会社の写真部への紹介状を貰って僕は写真家舎への道を歩き始めたのだった。
(この記事は自著のフォトジャーナリストへの道)(東京書店)からの抜粋
なんでもないところから、
こういううの、
フット思い出すんだねそれがまた楽しい…
だからなんでも書いておかなければ…なんだよね…