コロナ二回目、副反応はなくて良かった
大袈裟と思われるかも知れないが、死んでいる人がいる以上、まさにロシアンルーレット。確率は50パーセント。
死を覚悟して臨んだのだが,結果的には、打ったところがちょっと痛い程度で、用意した解熱剤は不要となった。
打ったのは13時。15分の待機時間を経過しても何の反応もなく、表に出て、一風堂のラーメンと、明太子ご飯を注文、ペロリと食べて、玉川線二子玉駅跡を写真にしようと探すが見つからず、諦めて帰った。
二子玉川には叔父の家があって、東京に出てきて暫く、居候してたから、つい懐かしくて。
小さな商店街があって、叔母(僕はおねぇちゃんと呼んでいた)と、夕方買い物に行ったのが記憶にあって、フラっと散歩してみたのだが、風景があまりにも変わっていて見つけることができなかった。
「玉川線、駅巡り」というバスがあるみたいなので、今度、それを利用してみよう。
というのは、「世田谷区の100年」(いき出版本体価格9082円)という本に「変わり続ける風景━都市化の進展」というタイトルで僕がコラムを書いているから、一度写真を撮っておこうと思ってね…
僕の書いたコラム
ひとつの時代から、ひとつの時代へと、時代が大きく変わることがある。そのはざ間を称して「エポックメーキングの時代」というのだそうだ。
エポックメーキングとは「変化のとき」また、「新しい時代をつくりあげること」
日本の、とりわけ東京のエポックメーキングは、昭和39年に開かれた「東京オリンピック」をはさんだ前後10年だと思っている。つまり、東京の風景は、昭和30年から40年代にかけて大きく変化しているのである。
たとえば、オリンピック以前の東京の風景は、木造の住宅が目立ち、自然もあってのんびりしていた。しかし、オリンピック以降は鉄筋コンクリートの乱立する風景へと様変わりしており、同時に「経済」も「人の心」までも大きく変化している。
「昔はよかった」
昭和時代に団塊世代以前の人がよく使ったこの言葉は、人情が薄れたことを嘆いていることが多い。だが、近代化とは「新しい時代の感覚に合わせて生きること」だと思えばそれも致し方ないこと。
私の記憶のなかで、もっとも風景が変わった地域は、二子玉川である。田園風景だった駅周辺に玉川高島屋SCができたのが昭和44年。人がたくさん集まるようになれば、しゃれたブティックやレストランが増えてきて、街はますます進化する。二子玉川はカタカナで「ニコタマ」といったほうがふさわしくなってきた。
確かに、映画ALWAYS三丁目の夕日に描かれた東京の下町の人情は素晴らしい。だが、ノスタルジックは心の風景。そこに写った景色(写真)に、それぞれの“思い出”を重ねるからこそすばらしいのだと、写真家の筆者は思う」(久保雅督)
オッ ちゃんとまともに書いている。
しかし、今あるこの風景だって、いづれは消えてノスタルジーの風景になってしまう。
そう考えると、現実は一時のもので幻のもの、ふと、そんなことを感じたのだった。