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今日は 久保雅督です。
「撮って書いてワヤで笑える人生日記」にお越しいただきありがとうございます。
今日はショートエッセイで、若い頃の思いで
「コンテンポラリフォトグラフィの頃」
というテーマで書いてみました。
一枚の写真の中には何万語にも及ぶ記憶が
23歳頃の作品(今70歳)
確か天満屋(岡山)の地下街だった。
サンノーゼ
確か喫茶店だった。
頭で考えない 感じた瞬間を記録に残す。それがコンポラと思っていた
頭で考えない
アッと思った瞬間に、ノーファインダーでシャッターをきっている。
そこに写った、瞬間の影像に意味がある。
だから、写真がいつでも撮れるように、カメラには、28ミリのレンズを着け、
トライX(ASA400)という高感度のフイルムを入れ、
人差し指を常にシャッターに添えて、カメラを持ち歩いていた。
荒れ ブレ、ボケ… 写ってないのも、感じれば、それが作品なのだから、写るメカニズムむなんか、考えなくていいのだ
シャッタースピード、絞り、そんなものは関係ない。
そうして写した写真を、D76という現像液(通常は20度)の温度を高くして、長時間現像をするのだから、ネガはもう無茶苦茶。
ある時、そうして撮った写真で、仲間と展覧会をすることになり、先生の知り合いの写真屋さんに、プリントをお願いした。
その写真屋さん ネガを見て、先生のところに
「もう、無茶苦茶なネガですよ」
そう言って電話をしたらしい。
それを聞い先生は
「だから面白いんだ、やってくれ」と。
私が23歳位の頃で先生は70歳を超えていたが、感覚は、私などより、はるかに若かった
アルスカメラ(後のフォトアート)の編集長をやり、多くの有名写真家を育てた石津良介先生にそう言われると、写真屋もイヤと言うわけには行かない…
結果、写真屋さん
「へー驚いたなぁ こんな写真になるんだ いいねぇ」
そう言って感心してくれた。
私が発表した作品は、
確か全倍(畳一畳位の大きさ)を10点位だった。
それに、親父が日記帳に書いていた
「情熱のままに」という文書を添えた。
☆ ☆
私の心臓は情熱の炎に、希望の炎に燃えたぎっている。
私はー情熱を以て誠実と名付く。人は誠実が一番いいや
私はー情熱の動きのままに動いてきたり、亦、動きつつあり、そして亦動いていくのだ。
私はー 人、皆、自分んの心よりしたがること何なるかを知らず。即ち情熱の動きにつきて知らざると思うなり。
私はー斯く人々を哀れと思う。そして亦、私自身、それがために苦しむなり。されど私は主義を変えず、主張を捨てず斯くのごとき愚論の後にほろにがき莨くゆらしつつ
ああ、またしても私はー放浪と思い出の涙にむせぶなり
という文章を、同僚の女性に、竹筆のようなもので、
写真と同じ大きさの大きなパネルに、緑のインクで書いてもらい展示した。
会場では、何人かの女性が、この文章を手帳に書き写していたのを、今もハッキリと覚えている。
親父は私が1歳の時、36歳で亡くなっているので、恐らく、展覧会をした私と同じ年齢の頃に書いたたもの。
親父の書き残した一文を添えたことによって、
顔も知らない親父と一緒に、
しかも、同じような感性で発表できたということに、この上ない喜びと感じたことを、昨日のことのように思い出した。
写真って、本当にいいね。
後に友人が、
「直接お父さんを知らなくても、書き残された文章を通じて、心の交流をしている。素晴らしい」と、手紙をくれた。
とても嬉しくて、涙が溢れた。
「コンテンポラリフォトグラフィーの頃」
最後まで読んでいただきありがとうございました。