しゅうよう(秋陽)か、いい言葉だな
雑木林の中で、この紅い実を見ると、なぜか嬉しくて、写真を撮るの。
木漏れ日のスポットライトに浮かび上がる紅色が秋を象徴しているように、僕には思えるのである。
「この紅い実の中にはね、大黒様がいっぱいいるの」と教えてくれたのは母だった。
母が勤めていた「青年の家」(県の研修施設)は、吉備の中山という山の中にあって、夕方になると、途中にある知り合いの家に自転車を置かさせてもらって、山道をテクテクと歩いて、よく迎えに行ったの。
カラスウリの紅い実、その山道の何処かで見ていたんだね、
この実を見る度に、何か、懐かしさを感じると同時に、その頃のことを思いだすのである。
郷愁とは、多分、そういうのを言うんだろうね…
でも不思議なんだよね、
自分が思っているのに、なぜか思いだすシーンには、母と連れ添って歩いている自分の姿が見えるのである。
そう、ちょっと俯瞰する位置から、ドキュメンタリーの映画を見ているように…
そう言えば、その頃の友達との色んなシーンを思いだす時も、同じように、友達といる自分が見えるのである。
思い出というのは、もしかしたら、頭の中で編集された記憶…
「しかし」というべきなのか「ただ」というべきなのか、その接続の使い方がよくわからないのだけれど、
その映画に出てくる人たちは、みんな若くて、
「嗚呼」とつい、思い出にふけったりするのである、
そういうのって、ちょっと特異体質なのかなぁ
そして、そういう映像を思いだせば、その時話した言葉までも蘇ってくるからテレビなど見ているよりも余程か、楽しいのである。
でも、そうした人たちもだんだんといなくなってしまった。
寂しいね…
いつまでも忘れられないおばちゃんとの別れ
「アッ そうだそうだ、おばちゃんにちょっと言とかなきゃ」
時々、そんなことをフッと思うことがある。
だがすぐに
「ああ、そうか」と。
一昨年の今頃だった。
東京から岡山の病院に帰って、荷物を整理していたら、
「ありゃ、帰ったん」
そういって手を差し出してきたので
「あら 起きたの」
そう言って手を握り返したた直後にはまた眠りについて、それが永遠の別れとなってしまった。
「あれは、ひと声のために僕を待ってたんだな」と思うと、つい涙が出てしまう。
「忘却とは忘れ去ることなり」
「…」
というけれど、
やっぱり思い出、大切だよね…
ブログを書きながらそんなことを思うのだった。